ご祭神
- 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
- 素戔嗚命(スサノオノミコト)
- 稲田姫命(クシナダヒメノミコト)
~ 日本書紀に記された白鳥伝説の聖地 ~
日本神話の英雄であるヤマトタケルノミコトが東征の帰路、伊勢の能褒野で亡くなり、その後、白鳥に姿を変え、飛び立った物語[白鳥伝説]。
日本書紀には【①能褒野(のぼの・現在の三重県亀山市)】、【②大和琴弾原(ことひきのはら・奈良県御所市冨田)】、そして【③河内の旧市村 (ふるいちむら・大阪府羽曳野市古市)】、これら3ヶ所が白鳥伝説の地として記されています。
白鳥に姿を変えたヤマトタケルは最後に河内の旧市村 (ふるいちむら=大阪府羽曳野市古市古市)に降り立ち、その後、天に昇られました。つまり白鳥神社が鎮座する羽曳野市古市は「日本武尊(ヤマトタケル)白鳥伝説・最後の地」ということであり、羽曳野という地名は、この地に飛来したヤマトタケルノミコトが、「羽を曳くように再び飛び去った」という話に由来しています。
~由緒 略記~
白鳥神社縁起によりますと、河内国古市郡古市村の産土神として祀られている当社は、かつて古市村に隣接する軽墓村(現羽曳野市軽里)西方の伊岐谷(いきだに。井喜谷)にあった伊岐宮(いきのみや)が本来の宮でした。
享和元年(1801年)の河内名所図会(かわちめいしょずえ)には「伊岐宮 誉田の南五町古市村にあり 日本武尊の霊を祀て白鳥明神と称す 古は伊岐谷にあり 後世つひに勧請す 相殿牛頭天皇 婆利賽女を併祭る 此所の生土神とす」と記されています。
伊岐宮はもともと白鳥陵の傍らに鎮座していましたが、南北朝時代や戦国時代の戦火により焼失したとされます。その後は軽墓村の峯ヶ塚古墳に小さな祠として再建されましたが、文禄5年(1596年)の「慶長の大地震」で倒壊し、一旦はそのまま放置されたそうです。そして江戸時代初めの寛永末期(1640年頃)に現在の地に遷座したと伝えられています。なお、江戸時代には峯ヶ塚古墳が白鳥陵とされていたこともあるようですが、現在は軽里大塚古墳(前の山古墳)が日本武尊白鳥陵に治定されています。
御祭神は、江戸時代には白鳥大明神、午頭天王(ごずてんのう)、婆利妻女(はりさいにょ=牛頭天王の后とされる神)の三神が祀られていました。現在は日本武尊、素戔鳴命、稲田姫命という表記ですが基本的には同じ神様が祀られています。
明治時代に入ると旧社格で村社に列格。明治41年(1908年)には同じ古市村の字古屋敷にあった式内社・高屋神社を合祀。高屋神社は昭和29年(1954年)に古屋敷に再建され遷座しましたが、白鳥神社では現在も高屋神社の御祭神である饒速日命と広国押武金日命(安閑天皇)を祀っています。
白鳥神社の鎮座する古市は古代から交通の要衝でした。周囲には古市古墳群最大の規模を誇る巨大な古墳が多数あり、古市の中心部には日本最古の官道である竹内街道が横断しています。平安時代には京から高野山に向かう東高野街道も賑わいをもたらしていました。
明治以降に古市駅が出来、富田林方面・橿原神宮方面などへの分岐点となりました。国道170号も開通。現在でも多くの人が行き交う町となっています。古市駅は明治31年(1898年)に河陽鉄道の終点として開業しましたが、当寺は現在地より200mほど南にありました。昭和44年(1969年)に竹内街道が横切る古市1号踏切北側、つまり現在の白鳥神社西隣りに移転しました。
江戸時代に勧請された白鳥神社のそばには、当時の主要道路だった2つの街道、竹内街道と東高野街道があり、その交差点「簑の辻」の北西に白鳥神社は鎮座しています。
鎮座地の古市は、明治の初めまでは古市郡古市村でしたが明治22年(1889年)に誉田村、碓井村、軽墓村を吸収合併。明治29年(1896年)に所属郡が南河内郡になり、大正5年(1916年)には古市町となります。当時の白鳥神社鎮座地は南河内郡古市町大字古市字北町となっおり、かつての古市村や古市町の中心はこの白鳥神社周辺だったようです。昭和31年(1956年)には高鷲町、埴生村、西浦村、駒ヶ谷村、丹比村と合併して南大阪町が発足。そして昭和34年(1959年)に南河内郡南大阪町が市制施行して南大阪市となり、即日改称して羽曳野市となりました。
日本武尊の白鳥伝説と深い関わりのある羽曳野市には、「白鳥」という地名もあります。これは白鳥神社の少し西を通る国道170号(旧道)より西の辺りで、その南西には白鳥陵古墳があります。ちなみに、現在この住所や交差点名に使われる「白鳥」は「しらとり」ではなく「はくちょう」と読みます。